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【緊急特集】 高杉晋作を、かく語りき

エキセントリック。
雷電風雨、ではないけれど、高杉晋作のイメージはおおむねそんなところだろう。
激しい言動や、狂的ともいえる衝動性、風流人とも強調されてきたし、それは嘘ではない。
若い読者のなかには第一印象が『銀魂』(空知英秋集英社JC)の高杉(右上)というひとも多いくて、テロリスト、とか「俺ァただ壊すだけだ/この腐った世界を…」とかのイメージも色濃く投影されているから、もはや一大ピカレスクヒーローである。
大河ドラマ伊勢谷友介演じる高杉が登場したときのツイート(「三味線キター」「あとは煙管さえあれば、、、」など)は実にほほえましかった。

しかし、当然のことだが、高杉晋作はそれだけの人ではない。
エキセントリックに映れば映れほど、それはポーズでなはいか、とすらおもう。*
彼はクレバーで、自分が登場すべき舞台をよく心得、演じていただけなのではないか。
主役として動く余地のない舞台には決して登場しないし、登場するときは、必ず決定的な解決を迫られる場面でなければないと。
具体的に彼の来歴を追ってみる(=自分用メモ)。
 
1839年8月20日、萩で生まれる。高杉家は代々毛利家の忠臣=家柄のよいボンボン。超わがまま。自信家。

19歳で吉田松陰松下村塾に入門。学問に目覚める。

20歳。江戸から信州へ留学した際、佐久間象山に「外国を見なければならない」と教えられ、2年後、藩命でとして長崎から中国の上海へ渡航(幕府使節随行員)。**

1862年夏、上海から戻ってすぐさま討幕論を展開、同年12月に井上聞多久坂玄瑞らと品川御殿山の英国公使館焼き討ち。翌1863年、久坂らと吉田松陰の遺骨(※松陰は1859年に斬首されている)を小塚原から世田谷に改葬***。過激行動ゆえ藩政から遠ざけられ、「西行」のパロディ「東行」として松本村で隠棲。たぶんこのときザンギリ頭に。

1863年5月10日、長州藩関門海峡で外国船を砲撃。のち惨敗。萩の草庵に隠棲している高杉のもとに、下関防衛の司令官になるよう辞令。

6月、奇兵隊結成。

1864年1月、京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得に失敗、脱藩して京都へ潜伏。2月には萩へ帰郷、脱藩の罪で野山獄に投獄。6月には野山獄を出所するも、自宅座敷牢での謹慎処分。

7月、蛤御門の変禁門の変)。来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害。長州藩は朝敵となり、声望が一挙に失墜。

8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台を占拠。晋作は赦免されて和平交渉の藩代表となる。伊藤俊輔井上聞多は通訳。****

9月、藩の内紛で福岡へ逃れ、野村望東尼の平尾山荘に匿われる。11月の末に関門海峡をわたり既に敵地となった下関へ帰還。

12月15日夜半、遊撃隊、力士隊を率い挙兵。一路萩へ。 大田絵堂の戦いに勝利。長州の藩論統一。

新たに発足した藩政府に資金を用意させ、伊藤俊輔らを連れて長崎へ。海外渡航のため英国貿易商グラバーと面談したが決裂、下関開港を決断し帰藩。(※今ココ)
  
 
やっぱりわけがわからない。
ただ、『世に棲む日日』(司馬遼太郎、文春文庫)など読んでいると、彼の考えはわりと合理的・実際的なのではないかと思えてくるから不思議だ。
人より思考の速度が早くて行動力もあるから突拍子もなく見えてしまうのかも知れない。
それでいて、詩人なのだから困ってしまう。
忠義に篤いし、永遠のロマンチスト吉田松陰への憧憬も忘れない。
おそらく本人のなかのアンビヴァレンツが、隠遁とか脱藩とかのおもしろ行動を引き起こしたのではないか。

高杉は、現実をあるがままに、無理なく見ようとしたという意味ではやはり龍馬のソウルメイトである。
しかし、彼には松陰という美しい理想があり、そこから遠く離れて現実を担うことは、ある意味屈折だった。
そういう彼が現実から去るときに詠んだのがこれである。

おもしろき こともなき世を  おもしろく

こういうところが、実に、いとおしい。
  

http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/

 

世に棲む日日〈1〉 (文春文庫)

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銀魂-ぎんたま- 12 (ジャンプ・コミックス)

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* もちろん、このあたりは空知先生もよくわかってキャラを造形している。

** 植民地化された上海の悲惨な現状を目のあたりにし、国家統一のため武力により幕府を倒すことを決意する。
(このときピストルを土産として購入、その一丁(スミス&ウエッソン32口径)を龍馬に与えた。)
以下、『世に棲む日日』より。
(幕府などは、屁のようなものかもしれん)
という実感がつよくなった。国内にいるときには徳川幕府というのは天地そのものであり、とてもそれを倒すことなど不可能におもえていたが、上海にきてふりかえると、幕府など単に大名の最大なるものにすぎず、その兵(旗本)は弱兵ぞろいで、二つ三つの大名があつまって押し倒せば朽木のようにたおせるということを、みずみずしい実感で思った。このことが、晋作の上海ゆきの最大の収穫であったであろう。晋作の「洋行」はそういう意味で奇妙であった。かれは、上海に行ってから革命をもって生涯の事業にしようと決意したらしい。
「どうだ、やはり攘夷でゆくかね」
と、佐賀の中牟田倉之助が、江岸の景観を見ながら晋作に笑いかけたとき、晋作は例の上から鳴るような声で答えた。
「攘夷。あくまでも攘夷だ」
といったのは、攘夷というこの狂気をもって国民的元気を盛りあげ、沸騰させ、それをもって大名を連合させ、その勢いで幕府を倒すしか方法がないと知ったのである。開国は、上海を見ればもはや常識であった。しかし常識からは革命の異常エネルギーはおこってこないのである。
*** これが松陰神社

**** 伊藤俊輔井上聞多長州藩の5名が秘密留学生として英国に留学(『長州ファイブ』ね)。伊藤、井上の2名は翌年帰国。英国の先進文明を目の当たりにした井上聞多は一転、死を賭して開国論を唱えはじめる。
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