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きみの胸のタトゥー | ミュージカル「ロックオペラ モーツァルト」

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私の初恋の人は、ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト

7歳になったばかりのクリスマスの朝、彼の伝記を贈られたのがきっかけで、「神の子(アマデウス)」に恋をした。

4歳で作曲。6歳になるとシェーンブルン宮殿で御前演奏し、王女マリー・アントワネットにプロポーズ。14歳のとき滞在したローマでは、門外不出の名曲を耳で聴いただけで正確に書き記し、ローマ教皇から黄金拍車勲章を賜る――いわゆる天才。天才ってカッコイイ! わがままで悪魔的で、でも音楽と人間を愛してやまないモーツァルトってなんてすてきなの! ロックスターのCDを追いかけるのと同じ感覚で、私は彼とその音楽に夢中になった。

これが、私とクラシック音楽とのなれそめでもあった。

キャラクター偏愛主義

だから私は今でも、「推しはだれ?」と聴かれたときに「モーツァルト!」以上に情熱をもった回答をすることができない。

そりゃあ、新譜が出たらほしいな、できればコンサートや舞台にいきたいな、と思うアーティストや役者は何人かいる。でも、モーツァルトはちょっと次元が違う。方向性の変化でがっかりすることもないし、熱愛や差別発言や犯罪でショックを受けることもない。なにしろ200年前に死んでいるから、限りなく二次元キャラに近い。文字通り「次元が違う」のだ。

実際、私は「キャラクター」偏愛主義者だと思う。

もともと「キャラクター」という言葉には「物語の登場人物」という意味があった。この「物語」を「小さな共同体(コミュニティ)」と読み替え、「キャラクター」を「コミュニティ内での個人の位置やイメージ」という意味で使うようになったというのが、ここ21世紀以降の社会学界隈で主流になっている考え方だ。では、「物語」を「音楽史」、「キャラクター」を「作曲家」に読み替えてみたらどうか。

少し前に「歴女」というのが流行し、戦国武将や幕末の志士たちにあこがれ各地を旅する女性たちが話題になったが、あれを「歴史上の人物をキャラクター化し、人物同士の関係性に熱中する女性」と定義していいなら、私はまごうかたなき歴女だ。私にとってモーツァルトは「革命前夜を駆け抜けたロックスター」だし、ベートーヴェンは「恋多きツンデレ」だし、ブラームスは「情熱を秘めた見守り孤独系」なのだ。

関係性で言うなら、まずショパンとリストは外せない。若き日のバディ感はもちろん、サークル内トラブルで決裂しながらも延々ショパンを思い続け、死後まっ先に評伝を書いてしまうリストがいとおしい。シューマンメンデルスゾーンたちもまきこんだ「チーム男子」ぶりも見事。*1

近年の『クラシカロイド』を例にとるまでもないが、こういう感覚って、じつは女性たちのあいだには昔からあったように思う。その最初期は、もしかしたら大正時代の少女雑誌の読者投稿欄ではないかというのが、現在の私の仮説だ(検証中)。当時から、クラシックを聴く“お嬢さん”のなかで「どの音楽家がすき?」と“クラ女の品定め”をする伝統はたしかに存在したし、彼らが作った音楽を、いわば「キャラソン」のように貸し借りしていた形跡があるからだ。

拙著『マンガと音楽の甘い関係』(太田出版)にも詳述したが、私が小学生だった1992年でも、大好きだった藤子F不二夫のSFアニメのエンディング(ベートーヴェンを引用したポップス)がちょうどこんなかんじだった。

ベートーヴェンに恋して ドキドキするのはモーツァルト
ブルジョア気分ならシューベルト だれにあげようか I LOVE YOU
(作詞 川島だりあ

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モーツァルトの出待ちなら

私にとってのモーツァルトは、まさにドキドキする、あこがれのロックスターだった。

彼に近づきたくてCDを集め、文献を読みあさり、彼の故郷ザルツブルクで暮らしたくてドイツ語を習い、短期留学もした。誕生日には毎年バースデーケーキを用意するし、こうして話しているだけでうっとりする。今年、フランスのミュージカル『ロックオペラ モーツァルト』(シアターオーブ)が上演されたときに連日通ってしまったのは、私がモーツァルトの「強火担」だからだと思う。

ロックオペラ モーツァルト』はフレンチ・ミュージカル。内容は、おなじみの名作映画『アマデウス』の、センチメンタルでエモーショナルな翻案といえる。モーツァルトといえばサリエリ、というくらい2人の愛憎に目がない私は、そのサリエリを(もうひとりの偏愛歴史人物・土方歳三が代表作の)山本耕史が演じるというので、喜び勇んで出かけた。

物語の冒頭、ステージに爆音のレクイエム〈怒りの日(Dies Irae)〉が鳴り響く。

山本と入れ替わりでモーツァルトを演じるのは、ウィーン版ミュージカル『モーツァルト!』で知られる中川晃教毛皮にレザーパンツのいでたちや振る舞いは、まさにロックスターそのものだ。「神童」を脱しようともがき、大司教にけんかを売る17歳のモーツァルトの前に、「神童も大人になればただの人」という現実が立ちはだかる。

再ブレイクをかけてパリに向かったモーツァルト。しかし、パリが与えたのは王族貴族の無関心と、同行してくれた母の急死。旅先で知り合った歌手アロイジア・ウェーバーへの手痛い失恋が追打ちをかける。

一方、神聖ローマ皇帝に仕える宮廷楽長という地位にありながら、革命的な天才モーツァルトに出会い、人知れぬ嫉妬と憧れを抱くサリエリ。その葛藤は、「殺しのシンフォニー」となって高まっていく――

これぞ青春の光と影、といった物語が、モーツァルトの旋律(たとえば協奏交響曲など)をアレンジしたクイーン風ロックで歌い上げられる。

きみの胸に僕の名前の タトゥーをして 街に出かけよう
唇には甘い歌声 未来は この手で作るのさ
(作詞 Dove Attia 他/訳者不明)

この「きみの胸のタトゥー」は、どんな境遇でもあきらめないモーツァルトが歌い、カーテンコールでも繰り返し流れたテーマ曲。役者の演技や歌唱力とあいまって、本当に爽快で、勇気をもらえた。

ウィーンで成功をおさめ忙しい生活を送りながらも、安定より愛と刹那に生きたモーツァルト次から次へと湧いてくる美しいメロディを、楽譜に書きなぐったモーツァルトフランス革命前夜、時代精神をするどくかぎわけ、支配階級への「Time's up」をオペラ・ブッファ(喜歌劇)であるフィガロの結婚として描いたモーツァルト――この洗練されたやり方に、私は憧れてやまない。

大司教に足蹴にされ、ろくでなしと罵られ、「人間を高貴にするのはその心です。ぼくは伯爵にうまれついてはいませんが、そこらの伯爵よりも、おそらくもっと多くの名誉を身についけています」と父への手紙に綴ったモーツァルトにとって、フィガロは分身のような存在だったに違いない。

しかし、挑発的で緊張をはらむことがあっても、モーツァルトの音楽は優雅さと洗練を失わない。意表をつくようなときでも、口元には絶えず微笑を浮かべ、相手の出方を待っている――そんな天才、愛さずにいられる?

ロックオペラ モーツァルト』に出会うまで、自分は「おっかけ」向きではないと信じてきた。音楽家もアイドルも宝塚のトップスターも、どんなに好きなっても、オタ友のみんなのように我を忘れて奉仕することなどできないからだ。

でも、よく考えたら、ずっとずっと私はモーツァルトの「おっかけ」だった。そして「おっかけ」になるということは、情熱的に世界を知るということでもあったのだと、あらためて思う。自著の引用で、彼への愛を捧げたい。

知的欲求は、どこから生まれるのだろうか──。
その源は恋だと、私は考えている。 異性への憧れでも、カルチャーそのものに対してでもいい。なにかに恋をしたとき、人はその対象を、知りたくてたまらなくなる。私はそうやって、音楽を、文学を、仕事を学んできた。
恋こそが、インテリ欲の原動力である。それは絶対に、普遍的な事実だ。
どんなに時代が変わっても、図書館がグーグルに変わっても、恋という感情がなくならないかぎり、乙女心のインテリ欲は、決して変わらない。

 

(初出:『クラシック野獣主義』、青弓社、2013)

Mozart L'Opera Rock

Mozart L'Opera Rock

 

 

*1:このあたりの物語は、桃雪琴梨さんという少女マンガ家が描いてヒットし、ドラマCDにまでなった。(『僕のショパンエンターブレイン、2009年)。